(狩場刑部左衛門について調べたことを備忘録を兼ねて記事にまとめておきます。狩場刑部左衛門や一つだたらについて調べる方に、少しでも役立てるようなら幸いです)
1414~1415年頃、和歌山県那智勝浦町の山間部にある色川地区に、一つたたら(ひとつたたら)と呼ばれる妖怪が出没し、人々を恐怖に陥れていました。
そんな時代、勇敢な若武者、狩場刑部左衛門(かりば ぎょうぶざえもん)は、村人たちの救いの手として立ち上がり、この怪物を退治したと伝えられています。
今回は、狩場刑部左衛門について掘り下げていきます。
彼がどのような人物であり、どのようにして地域の人々の平和を守ったのかを解説していきますので、最後までご覧いただければ幸いです。
狩場刑部左衛門と一つたたら退治について徹底解説(和歌山に伝わる妖怪伝説)
和歌山に伝わる妖怪退治の伝説を、ご確認ください。
妖怪一つたたらとは【和歌山に伝わる恐ろしい妖怪】
まずは一つたたら(一つだたら・一本だたら)について解説します。
一つたたらは、和歌山県や奈良県などの山間部に伝わる妖怪で、独特の一つ目と一本足の姿をしています。その巨体で山を跳び回り、人々に恐怖を与える存在として知られています。
特に、熊野地方では「果ての二十日」と呼ばれる12月20日に山に入ることが禁忌とされ、この日に山に入ると一つたたらに遭遇し、災いが降りかかるとされています。この伝承は、自然に対する畏敬の念や山神への信仰が背景にあり、昔から地域の人々が山の危険を意識し、自然と調和して生きてきた証ともいえるでしょう。
一つたたらの名は、山岳信仰や鍛冶職人「タタラ師」に由来するともされており、山の神としての役割を持つという説もあります。
紀伊山地の険しい山々がもたらす畏怖の念が、こうした妖怪伝説を生み出したと考えられます。現在でも地元では一つたたらの話が語り継がれており、自然への畏敬の象徴として、人々の記憶に残っています。
狩場刑部左衛門とは【妖怪一つたたらを倒した英雄】
「狩場刑部左衛門」は、1415年頃に妖怪一つたたらを退治した若武者です。
彼は、妖怪一つたたらが人々の生活を脅かす中で、村の救い手として現れました。
勇猛果敢な戦士で、困っている村人たちの話を聞き、怪物一つたたらを討つことを決意します。村人たちは恐れを抱きながらも、刑部左衛門の勇気に感謝し、退治に向かう彼を見守りました。
伝説によれば、刑部左衛門は夜の山に入り、一つたたらと遭遇。激しい戦いの末、彼は矢を持って一つたたらを見事に射抜き、妖怪を退治したとされています。これにより、色川地区は再び平和を取り戻したのです。
一つたたら退治後の恩賞(広大な山林)譲渡について
怪物退治に成功した狩場刑部左衛門には、その功績として熊野三山から「金百貫」と、「寺山三千町歩」(約3,000ヘクタール(ha))もの広大な山林が恩賞として与えられました。
なお、一町歩は、約0.99174haなので、「一町歩=ほぼ1ha」と考えてOKです。 1haは「100m×100m(10000㎡)」となっており、例えば東京ディズニーランドは「51ha」の広さとなっています。 つまり、狩場刑部左衛門が与えられた三千町歩(約3,000ha)は東京ディズニーランド「約60個分」の山林を与えられたということになります。
寺山三千町歩はどのくらいの広さか
以下、三千町歩の広さの参考となる表を作成しましたのでご確認ください。
上記の通り、三千町歩とは、1辺の長さが「約5,477m(5.477km)」の正方形くらいの広さです。
しかし、彼はその広大な土地を自らの利益として独占することなく、色川郷18ヶ村に譲り渡しました。この行動により、地域の人々は森林資源を活用する権利を得て、農業や林業を発展させ、豊かな生活基盤を築くことができたのです。
この地域の発展に対する彼の貢献は、その後も多くの人々の間で語り継がれ、村人たちにとって狩場刑部左衛門は伝説的な英雄として深く尊敬されています。
一つたたらは妖怪・盗賊どちらなのか
前述のように、一つたたらは妖怪であるとする説がある一方で、一つだたらは盗賊であるとする説があります。それぞれについて以下の通りとりまとめました。
一つたたら妖怪説
この記事で紹介したように、一つたたらは一本足で一つ目を持つ妖怪であるとされています。
怪異・妖怪伝承データベースでは、一つたたらや類似事象で検索すると、以下の結果が出てきます。
ヒトツメダタラ
1926年 和歌山県
那智山に出た一つ目だたらを色川村の狩場刑部左衛門が射止めた。那智寺山は色川村の所有となった。オニ
1965年 和歌山県
昔、那智山に鬼が居て乱暴したので、刈場刑部左衛門という武士が1000本の矢を持って退治に行った。鬼は大きな釣鐘に隠れて矢を防いだので、刑部左衛門は999本を射てから「矢が尽きた」といって鬼をおびき出し、最後の矢で退治した。刑部左衛門はその功績で殿様から那智の滝の奥の山を貰った。色川の川原には鬼が隠れたという岩が今もある。ヒトツメタタラ
1972年 和歌山県
那智山中に住む「1つ目たたら」は1眼1足の怪物で釣鐘を被って身を防ぐ。そのため多くのものが倒されたが、狩場刑部左衛門という弓の名人が、99本の矢を打ち尽くした後、母からもらった呪矢で射倒したという。ヒトタタラ,オニ
1970年 和歌山県
王子権現に片目片足の鬼が住んでいて、熊野参詣の人を悩ました。刑部左衛門が討ち取った。イッポンダタラ
1986年 奈良県
「ハテノハツカに伯母ヶ峯越すな」と言う。12月20日に伯母ヶ峯にはイッポンダタラが出て、通る人を食らうという。熊野の狩場刑部左衛門という勇士が退治したとも、その話は大台教会の始祖の創作だとも言われる。
上記結果を見ても分かるように、一つたたらは、1眼1足の妖怪(あるいは鬼)であるとする伝承が多くあります。
一つたたら盗賊説
一方で、一つたたらは盗賊であるとする説も有力です。
熊野には「一踏鞴(ひとつたたら)」という盗賊の話があります。これは怪力無双の、化け物のような男で、一つ目、一本足だったといわれています。
また、狩場刑部左衛門記念碑の看板には一つたたらが盗賊であると記す記載があります。
狩場刑部左衛門記念碑
本名、上総五郎兵ェ盛清
1420年ころこの地方を悪らし廻っていた「一つたたら」
という盗賊を退治した功により熊野三山より多大の
報奨金をもらい、那智山からは寺山三千町歩を共に
利用できる山にしてもらった。
刑部左衛門はそれを自分だけのものとせず村民に分け与えたので
功績をたたえて玉子社として祀られた祭日11月1日
上記のように、狩場刑部左衛門の記念碑の看板に記述があるため、一つたたらが盗賊であるという説は有力です。
片目の盗賊が狩場刑部左衛門に退治されて、それが他の妖怪伝説(一つだたら、一本だたら)とミックスされて、伝わった可能性もあるかもしれません。
いずれにせよ、狩場刑部左衛門が一つたたらという存在を退治したことはどちらの説にも共通している事実だといえます。
狩場刑部左衛門が退治した一つたたらが妖怪だと考える理由
この記事では、次の理由から、「一つたたら=妖怪」として進めていきます。
・一つたたら(一つだたら・一本だたら)は奈良県・和歌山県で妖怪として広く伝わる存在である
・ただの盗賊を退治したものとしては、三千町歩(約3,000ha)の山林はあまりにも広大である
上記の通りです。
(狩場刑部左衛門が退治した「一つたたら」が、仮に妖怪でなく盗賊だったとしても、妖怪に例えられるほどの強さを持っていたと考えています)
狩場刑部左衛門に関するその他の伝説
那智山の鬼の話
狩場刑部左衛門が退治した存在が、鬼であるという伝説もあります。
また、狩場刑部左衛門の矢を、釣鐘を頭にかぶって防いだという話や、狩場刑部左衛門が1000本の矢を射ったという話もあります。
(ニュース和歌山様:妖怪大図鑑2021年より引用)
昔、那智山に鬼がいて、人々を襲った。ほとほと手を焼いた新宮の殿様は、古座奥に住む狩場刑部左衛門(かりばぎょうぶざえもん)という武士に退治を命じた。刑部左衛門は3年がかりで千本の蓬(よもぎ)の矢を作り、退治に臨んだ。しかし、鬼は大きな釣鐘を頭にかぶって矢を防ぎ、999本の矢を射られても当たらない。刑部左衛門は「これで矢が尽きた…」と言ってひれ伏した。鬼はこれ見よがしに釣鐘を脱いで襲い掛かったが、刑部左衛門は隠し持っていた千本目の矢を鬼の眉間に突き刺して退治した。以後、刑部左衛門は褒美(ほうび)として、那智谷の木の実を永久に拾える権利を願い出て、年に一度、古座奥から那智へ来て、木の実狩りを楽しんだ。
一つたたらの民話
以下は和歌山県文化情報アーカイブ様に記載されている、一つたたらの民話です。
(和歌山県文化情報アーカイブ様より引用)
むかし那智(なち)の奥山に、「一つたたら」という怪物(かいぶつ)があらわれました。身の丈(たけ)約九メートル、目がひとつ手も足も一本、疾風(しっぷう)のように現れ、民家を襲(おそ)い、那智山一帯の死活(しかつ)問題となりました。
腕に自信のある何人かの武士が、怪物退治(たいじ)に山へ入りましたが、帰ってきた者はありませんでした。噂(うわさ)では、身体は岩石のようで矢もはね返し、力も無双(むそう)であるということです。
あるとき、樫原(かしはら)の善兵衛さんの家に刑部(ぎょうぶ)という落武者(おちむしゃ)らしい若者が滞在(たいざい)していました。偉丈夫(いじょうふ)で人情も厚く、学問、武芸(ぶげい)に秀(ひい)でていました。
刑部は、村人たちの困惑(こんわく)を見かねて、怪物退治を申し出て、善兵衛さんを道案内に、まず那智権現(ごんげん)に祈りを込めて奥山へ入りました。山に入って四日目、にわかに西の空から轟音(ごうおん)が起こり、噂(うわさ)のとおりの怪物が刑部たちを襲って来ました。刑部は、あわてず弓を引き絞り、怪物の皿のような大きなひとつの目に狙いを定め、一矢にして射抜きました。
刑部には、この功労(こうろう)により、那智山から寺山三千町歩(ちょうぶ)と金百貫(かん)、本宮からも金百貫が贈られましたが、刑部は色川郷(いろかわごう)十八ヵ村に寄付して、村人から大いに感謝されました。
やがて、刑部、刈場刑部左衛門(かりばぎょうぶざえもん)は、色川の守り神として祀(まつ)られ、その神社は樫原(かしはら)にあります。
この話は、永享(えいきょう)七年(一四三五)、室町時代の出来事で、刑部は平家の一族と言い伝えられています。
こちらの民話は、一つたたらを妖怪として扱っていますね。
約九メートルという大きさはかなり大きいです。
狩場刑部左衛門ゆかりの地
ここからは、狩場刑部左衛門ゆかりの地を紹介していきます。
狩場刑部左衛門神社(狩場刑部左衛門記念碑)
狩場刑部左衛門の死後、王子神社が作られ、地元の人々は狩場刑部左衛門を地域の氏神(王子権現)として祀りました。
王子神社が廃社となった後も、郷民は狩場刑部左衛門の墓地に石塔を建て遺徳を偲び、1918年には墓地が広げられて、狩場刑部左衛門神社および狩場刑部左衛門記念碑が建てられました。
項目 | 内容 |
名称 | 狩場刑部左衛門記念碑 |
住所 | 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町樫原81 (狩場刑部左衛門神社内) |
アクセス | 道の駅「なち」より車で約40分 |
建設年 | 1918年 |
googlemap | https://maps.app.goo.gl/BSiPpPEEj1hHUxoz6 |
狩場刑部左衛門神社(狩場刑部左衛門記念碑)への行き方
狩場刑部左衛門神社(狩場刑部左衛門記念碑)への行き方は、以下の通りです。
(狩場刑部左衛門記念碑も同じ場所です)
①:県道45号線から、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町樫原81(前述した表のgooglema欄リンク先)を目指すと、狩場刑部左衛門記念碑を案内する看板まで着きます。(こちらの看板までの道は、googleストリートビューで簡単に確認することができます)
②:看板が示す石段を登ります。
③:石段を登ると、狩場刑部左衛門神社の鳥居が見えてきます。
④:狩場刑部左衛門神社に到着です(鳥居の奥に見えるのが狩場刑部左衛門記念碑です)
以上が狩場刑部左衛門神社(狩場刑部左衛門記念碑)に行く方法となっています。
色川神社
色川神社は狩場刑部左衛門(王子権現)を祀っていた王子社の合祀先です。
(明治の神社合祀令により1910年に合祀)
ただし、この合祀は以下の通り、村内15社の神社を合祀したものとなっています。
明治43年12月23日許可をうけ大正3年4月18日、村内15社の神社を合祀し、大正3年11月4日許可を得て、今の名に改めた。合祀した神社は、次の15社である。
大字高野鎮座 村社 地主神社。
大字直柱鎮座 無格社 地主荒神神社。
大字大野鎮座 無格社 「金毘羅神社」および「境内神社維盛神社」
大字大野鎮座 無格社 「大神社」および「境内神社稲荷神社」
大字大野鎮座 無格社 剣神社。
大字大野鎮座 無格社 風ノ宮神社。
大字大野鎮座 無格社 大塔神社。
大字田垣内鎮座 無格社 水本神社。
大字田垣内鎮座 無格社 地主神社。
大字田垣内鎮座 無格社 大神社。
大字坂足鎮座 無格社 星帝神社。
大字樫原鎮座 無格社 王子神社。
大字熊瀬川鎮座 村社 藤本神社。
上記の通り、王子神社は、15社のうち1社です。
このため、色川神社は、狩場刑部左衛門(王子権現)を祀る神社とは言いづらいかもしれません。
もちろん無関係というわけではない(王子社の正式な合祀先は色川神社)ですし、色川神社は歴史のある神社でもあるため、訪ねる価値がある場所です。
項目 | 内容 |
名称 | 色川神社 |
住所 | 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大野397 |
特徴 | 狩場刑部左衛門(王子権現)を祀っていた王子社の合祀先 |
googlemap | https://maps.app.goo.gl/siq8SNJhvhW5fcmM7 |
那智高原公園の狩場刑部左衛門の石碑
那智高原公園にも狩場刑部左衛門の石碑の石碑があります。
読みづらいですが、以下画像の囲っている箇所に、「狩場刑部左衛門寄附山林」と書かれています。
狩場刑部左衛門の石碑には、那智高原公園の駐車場からすぐに行くことができます。
なお、狩場刑部左衛門神社(狩場刑部左衛門記念碑)と、色川神社、那智高原公園の位置関係は以下の通りです。
改めてですが、狩場刑部左衛門に与えられたのは、かなり広大な山林だったということが伺えます。
項目 | 内容 |
名称 | 那智高原公園 |
住所 | 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山5-3 |
特徴 | 周囲の山林が狩場刑部左衛門が寄付したものであることを示す石碑がある |
googlemap | https://maps.app.goo.gl/NKU85KhkfnuzggjV7 |
狩場刑部左衛門の年表
狩場刑部左衛門について、以下の通り年表をとりまとめました。
推測も多く含まれる年表ですが、大きく外れているということは無いはずです。
まとめ:狩場刑部左衛門は和歌山の色川地区を救った英雄です
いかがだったでしょうか。
1414~1415年頃、妖怪一つたたらは、人々を襲って生活を脅かしていました。
狩場刑部左衛門は、村を救うために立ち上がり、一つたたらを見事に退治しました。この功績により広大な山林が彼に与えられましたが、彼はそれを自分のものとせず村民に分け与えました。
彼の遺徳を称え、狩場刑部左衛門神社では毎年例祭が行われ、地域の人々にとって今も大切に守られています。近くを訪れた際には、狩場刑部左衛門神社や色川神社、那智高原公園の狩場刑部左衛門の石碑に立ち寄り、その功績に思いを馳せてみるのも良いでしょう。
それでは、今回は以上です。
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