かつて賑わいを見せていた和歌山市の中心商店街「ぶらくり丁」。最近訪れた際に「思ったより人が少ない」「シャッターが閉まった店が多い」と感じた方もいるのではないでしょうか。地元に昔から親しんでいた人ほど、「あの頃のにぎわいはどこへ行ったのか」と少し寂しさや疑問を抱えているかもしれません。初めて訪れる人でも、かつて繁華街として名を馳せた場所だと聞けば、その現在の姿とのギャップに驚くでしょう。
本記事では、そんなぶらくり丁がなぜ衰退したのか、そして現在どのような取り組みが進められているのかを、歴史的背景とともに解説していきます。江戸時代から現代に至るまで、ぶらくり丁が和歌山の商業と文化を支えてきた経緯をたどりながら、衰退のきっかけとなった出来事や、現状の課題についても触れていきます。
さらに記事内では、若年層による新たな店舗の登場や、地元イベントによる再生への取り組みなど、前向きな変化についても紹介します。大型店の出店や人口流出、ライフスタイルの変化といった外的要因にどう向き合っているのか、現場で進行中の再生計画や工夫を通して読み解くことができます。
ぶらくり丁の過去と現在を知ることで、和歌山という街の変化そのものを感じ取ることができるでしょう。この記事を通じて、「なぜぶらくり丁はこうなったのか」「今、何が行われているのか」という疑問を解消しながら、これからの可能性にも目を向けていただけたらと思います。ぜひ最後までお読みください。
和歌山の繁華街ぶらくり丁は衰退している?歩んできた歴史と今後を解説

- ぶらくり丁とは?和歌山の中心にあった商業と文化の交差点
- 高度経済成長期のぶらくり丁の賑わいと繁華街の黄金期
- 商店街の変遷:大型商業施設の影響と個人店舗の減少
- 空き店舗問題とぶらくり丁の現在の姿
- ぶらくり丁衰退の要因を多角的に分析
- 地元主催のイベントによる集客の工夫
- 若年層の参入と新しい店舗の登場
- 空き店舗対策と今後の課題
- 和歌山繁華街ぶらくり丁は衰退している?記事のまとめ
ぶらくり丁とは?和歌山の中心にあった商業と文化の交差点

和歌山市の中心部に位置する「ぶらくり丁商店街」は、かつて和歌山の商業と文化が交差するシンボル的な場所として栄えました。
その歴史は古く、文政13年(1830年)に、付近一帯が大火により消失した後、町大年寄の和田九内正主が横丁で商売することを願い出たのを機に、食料品や衣料品等を扱う商人が集まってきたのが始まりです。
「ぶらくり丁」という名称の由来には諸説ありますが、有力なのは紀州方言の「ぶらくる(吊り下げる)」から来ているという説です。商人たちが軒先に商品を吊り下げて(ぶらくって)並べていた光景が、商店街の名に結びついたとされています。また、商店街を「ぶらぶら歩く」という意味も込められているという風にも言われています。

江戸時代には紀州藩随一の歓楽街としても名を馳せ、演芸や飲食文化が盛んに発展しました。明治以降もその勢いは続き、大阪以南で最大級の商業都市として、ぶらくり丁は和歌山の経済と文化の中心地であり続けました。
戦後、1945年の空襲で多くの建物が焼失するという困難にも見舞われましたが、商店街は力強く再建され、復興を果たしました。やがて1970年代には、その復興の成果が実り、ぶらくり丁はかつてないほどの活気に包まれる黄金期を迎えることになります。
高度経済成長期のぶらくり丁の賑わいと繁華街の黄金期

1970年代の高度経済成長期、ぶらくり丁商店街は和歌山市のみならず、県外からも多くの人が訪れる大規模な繁華街へと発展しました。商店街の通りには、ジャスコや大丸百貨店、長崎屋、ニチイといった大型商業施設が進出し、一帯はまさに「買い物の街」としての地位を確立していました。
当時は商店街内外に5館以上の映画館が立ち並び、家族連れから若者まで幅広い層が足を運びました。飲食店や個人商店も賑わいを見せ、たとえば「島清金物店」では年商1億円を超え、15人の従業員を抱えるほどの規模に成長。年に2回の大売り出しでは、周辺からの客でごった返す活況ぶりでした。
和歌山県外、とくに大阪方面からの集客も多く、週末にはぶらくり丁のアーケード内を人が埋め尽くしていたという記録もあります。バスや鉄道を乗り継いで訪れる買い物客にとって、ぶらくり丁は憧れの消費空間だったのです。
この時期、ぶらくり丁は単なる商業の場にとどまらず、和歌山の都市文化を象徴する空間としても存在感を放っていました。ファッション、食、娯楽が一体となり、繁華街としての絶頂期を迎えていたのです。
商店街の変遷:大型商業施設の影響と個人店舗の減少

しかし1980年代に入ると、ぶらくり丁の勢いに徐々に陰りが見え始めます。その大きな転機となったのが、1981年に郊外にオープンしたダイエー和歌山店の出店です。大型駐車場を完備した郊外型店舗の登場により、自家用車での移動が当たり前になった消費者の動線が大きく変化していきました。
さらに1986年には、中心部にあった和歌山大学が郊外へ移転したことで、学生を中心とする若年層の人流が減少。市街地に人が集まりにくくなり、繁華街としての魅力が徐々に失われていきました。その後、2001年に丸正百貨店が倒産したことで、ぶらくり丁の衰退は決定的なものとなります。
個人店舗にとっても厳しい時代が到来します。大型店の価格競争や、ECサイトの普及により、対面販売に頼る小規模店は次第に淘汰されていきました。商店主の高齢化や後継者不足といった問題も重なり、閉店が相次ぎます。
実際、ぶらくり丁の店舗数は最盛期の500店から現在では約250店にまで減少。ぶらくり丁7地点の休日平日の平均通行量も1992年の「5.4万人」から2010年には「1.7万人」と大幅に落ち込みました。都市構造と消費者行動の変化が、ぶらくり丁の歴史を大きく塗り替えていったのです。
空き店舗問題とぶらくり丁の現在の姿

かつては500店舗以上が軒を連ね、県内外から多くの人が訪れていたぶらくり丁ですが、現在はその面影が薄れつつあります。店舗数は最盛期の半分にまで減少し、2020年代初頭には250店前後となりました。通行量も減少の一途をたどり、1992年には5.4万人/日を記録していたものの、2010年にはわずか1.7万人/日に落ち込んでいます。
空き店舗だけでなく、周辺には空き家や空き地といった未利用不動産も増加しており、街の景観や治安への影響も懸念されています。シャッターが閉まったままの店が並ぶ風景は、かつてのにぎわいを知る人々にとっては寂しさを感じさせるものでしょう。
このような現状を受けて、地元自治体や商工関係者は空き店舗の利活用に関する対策を進めていますが、根本的な解決には至っていないのが現実です。再びにぎわいを取り戻すには、空間を再生するだけでなく、魅力的なテナントの誘致や新たな消費者層の開拓が不可欠といえます。
ぶらくり丁衰退の要因を多角的に分析
ぶらくり丁の衰退には、単一の要因ではなく、複数の社会的・経済的な要素が重なり合っています。まず注目すべきは、全国的に進行している少子高齢化と若年層の都市部流出です。和歌山市の18歳人口の77%が県外へ流出しており、購買層そのものが年々減少しているという構造的な問題があります。
また、郊外型ショッピングモールの出現によって、人々の買い物スタイルも大きく変化しました。広大な駐車場を完備し、娯楽施設も併設された郊外店は、車で移動する消費者にとって利便性が高く、ぶらくり丁のような都市型商店街から人の流れを奪っていきました。
都市構造の変化も影響しています。ぶらくり丁は最寄りの南海和歌山市駅から徒歩15分とアクセスにやや不便な位置にあるため、日常的な集客には不利な条件となっています。公共交通機関を利用する高齢者や観光客にとっては、立地そのものが訪問のハードルになっているのです。
さらに、インターネットショッピングの普及や、生活スタイルの多様化も衰退を後押ししました。スマートフォンひとつで何でも買える現代において、商店街の「対面販売」や「専門的な接客」の価値が相対的に下がってしまったのです。こうした多面的な要因が複合的に絡み合い、ぶらくり丁はかつての繁栄を失っていきました。
地元主催のイベントによる集客の工夫

ぶらくり丁の活性化を目指して、地元自治体や商店街連合はさまざまなイベントを通じた集客に取り組んでいます。その歴史は意外と古く、1989年に設立された「和歌山市中央商店街連合会」が主催する「わいわいぶらくりカーニバル」などは、地域の恒例行事として定着してきました。
こうしたイベントでは、地域の子どもたちによるパフォーマンスや地元グルメの出店、フリーマーケットなどが行われ、商店街に一時的なにぎわいを取り戻しています。しかしながら、イベント当日のみの集客にとどまることも多く、持続的な経済効果にはつながりにくいという課題もあります。
近年では、よりターゲットを絞った新しい試みも始まっています。たとえば、2019年以降に実施された映画祭では、全国および海外からの参加者が集まり、6割が県外客という結果に。来場者の満足度は100%と非常に高く、ぶらくり丁の新たな可能性を感じさせる事例となりました。
また、空き店舗を活用した若者向けマーケットイベントや、アーティストとのコラボレーション企画も開催されています。まちづくり会社「株式会社ぶらくり」(TMO)による官民連携のプロジェクトが進行中で、イベントを通じて商店街の新たな魅力を掘り起こす試みが続いています。こうした継続的な取り組みが、ぶらくり丁復活の鍵となるでしょう。
若年層の参入と新しい店舗の登場

ぶらくり丁の再生に向けた大きな一歩として注目されているのが、若年層による新規参入です。これまで高齢の店舗経営者が多かった商店街に、若い世代が自らのセンスや企画力を活かした店づくりで新たな風を吹き込んでいます。特に、空き店舗を活用したカフェやセレクトショップが増えてきており、その多くがSNSなどを通じて話題を集めています。
代表的な事例としては、若者向けのアパレルや雑貨を扱うショップをプロデュースしている「sasquatch社」による取り組みが挙げられます。既存の商店街の雰囲気に新しさを加えるような内装や商品展開が、若い来街者の興味を引き、地域内外からの集客につながっています。
また、和歌山信愛大学のキャンパス誘致によって、ぶらくり丁周辺には学生の姿が増えました。この変化は、従来の高齢化した来訪者層に偏っていた状況を変える一因となることが期待されます。
空き店舗対策と今後の課題

ぶらくり丁が直面する最大の課題のひとつが、増加し続ける空き店舗への対応です。現在、商店街の空き店舗率は36%に達しており、歩行者の少ない通りにはシャッターが閉まったままの店が連なっています。これにより、新たな出店の意欲が削がれ、人の流れがますます減少していく可能性があります。
この課題に対し、地元自治体や商工関係者はテナント誘致補助金の拡充をはじめとした支援策を講じています。具体的には、、ぶらくり丁周辺の活性化に向けて、イベント開催や夜回り等の防犯活動などまちづくり活動を実施している「一般財団法人和歌山まちづくり財団」を都市再生推進法人に指定するなどをしています。
同時に、歴史的景観の保全と現代的ニーズのバランスも重要なテーマです。江戸期から続く町割りを活かしつつ、現代人が快適に過ごせる空間づくりを検討しなければなりません。具体的には、観光客が商店街を周遊しやすくする仕掛けを導入し、地域全体の活性化につなげることを目指しています。
他地域の成功事例も参考にされています。たとえば、大阪・船場センターのリノベーション事例や、新潟県村上市での町屋再生、秩父市のナイトバザール戦略などは、ぶらくり丁にも応用可能なヒントが多く含まれています。こうした外部の知見を取り入れつつ、地域に根差した独自性のある対策を進めていくことが今後の鍵となるでしょう。
和歌山繁華街ぶらくり丁は衰退している?記事のまとめ
記事のポイントをまとめます。
- ぶらくり丁商店街は、かつて和歌山一の繁華街として栄えていた。
- 商店街の歴史は1830年の大火後に始まり、食料品・衣料品店が集積した。
- 「ぶらくり丁」の名称は、商品を吊るして販売する様子に由来するとされる。
- 江戸時代には紀州藩の歓楽街として、明治期には大阪以南最大級の商業都市として機能した。
- 戦後の空襲被害から復興し、1970年代に最盛期を迎えた。
- 最盛期にはジャスコ、大丸、長崎屋などの大型店が進出し、映画館や飲食店も集まっていた。
- 島清金物店など個人商店も高収益を上げ、商店街全体がにぎわっていた。
- 1981年の郊外型ダイエー開店や1986年の和歌山大学移転が衰退の転機となった。
- 2001年の丸正百貨店倒産がぶらくり丁の集客力に大打撃を与えた。
- 空き店舗率は36%に達し、店舗数は500店から250店に減少。
- 少子高齢化や18歳人口の県外流出が、購買層の減少に直結している。
- 郊外型店舗やインターネットの普及により、都市型商店街の価値が相対的に低下。
- 商店街の活性化に向け、映画祭やマーケットイベントなどの地元主催イベントが行われている。
- 若者による新規店舗出店や、和歌山信愛大学の誘致で新たな人流が生まれている。
- 空き店舗対策や歴史的景観の保全を含めたまちづくりが今後の課題となっている。
ぶらくり丁は確かにかつての賑わいを失い、「衰退」と言われる状況にあるのは事実です。しかし、その背景には社会の構造変化や都市計画の変遷、そしてライフスタイルの変化が大きく影響しています。
今後の課題は山積していますが、「歴史ある城下町の魅力」と「現代の消費者ニーズ」をうまく融合させることができれば、ぶらくり丁は再び和歌山の繁華街になることができるでしょう。
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