こんにちは、和歌山リーマンです。
和歌山市に位置する「新内(アロチ)」は、グルメやお酒を楽しむことができる、地元の人々はもちろん観光客にも人気のある繁華街です。
本記事では、そんなアロチの歴史を詳しく解説していきます。
和歌山の歴史と共に発展してきたアロチがどのように生まれ、発展してきたかをとりまとめておりますので、最後までご覧いただければ幸いです。
新内(アロチ)とは
繰り返しですが、新内(アロチ)は、「グルメ」や「お酒」を楽しむことができる和歌山市の繁華街です。
アロチのグルメやお酒を楽しめるお店については、以下の記事で解説しておりますので、併せてご確認ください。
続けて、この記事の本題(アロチの歴史)について深堀っていきます。
新内(アロチ)の名前の由来【荒打という言葉が由来】
新内(アロチ)の名前の由来について解説してきます。
コトバンク(出版社などが提供する信頼性の高い辞書・辞典・データベースから 用語の意味を一度に検索できるサービス)で、「新内村」と検索すると、以下の結果が出てきます。
新内村 あろちむら
名草郡に属し、雑賀川(和歌川)の東、太⽥村の⻄にある。⻄は城下で、「続⾵⼟記」は「⼈家あるところ皆若⼭の区域に⼊て⼾⼝市籍に偏在せり」と記す。永仁三年(⼀⼆九五)三⽉⼆三⽇付の⼤⽥郷検⽥取帳並検畠取帳(紀家蔵)に坪名として「南アラウチ」「北アラウチ」「北アラ打」「荒打」とみえ、中世は⽇前国懸宮領⼤⽥郷に含まれた。慶⻑検地⾼⽬録によると⾼七五⼆⽯ひのくまくにかかすおおた余。コトバンク様より引用
上記の通り。確認できる一番古いアロチの表記が「荒打(アラウチ)」という言葉で、こちらが元になっていると思われます。
荒打とは?
では、「荒打」とはどういう意味なのでしょうか?
調べてみた結果は以下の通りです。
精選版 日本国語大辞典 「荒打ち」の意味・読み・例文・類語
あら‐うち【荒打・粗打】
①土蔵の壁を塗るとき最初に荒木田土を小舞の間に塗りこめて壁の下地をつくること。このとき、素人も少し隔たった所から土を打ちつけて祝うことが行なわれた。あらぬり。
② 鍛冶屋が鉄を粗く不完全に鍛えたり、大工などが手斧(ちょうな)で材木を粗削りすること。
③ 弓を作る竹で、これから磨いたり曲げたりするもの④ ( 形動 ) 態度、様子などが粗野なさま。
(コトバンクより引用)
上記①~④までありますが、一般的には①(土蔵の壁の下地をつくること)の意味のようです。
①の意味が元になっているとしたら、昔のアロチには土蔵がたくさんあって、荒木田土(あらきだつち・赤土より粘土質が強く重い土)を、小舞(竹を小舞縄を用い格子状に組んで編み上げたもの)に、土を塗り込める・打ちつけて、壁の下地を作るというようなことが行われていたのかもしれませんね。
「新地」を「アロチ」と読んだことが名前の由来という説は誤り
ネットで新内(アロチ)の由来を検索した際に、【「新地」を「アロチ」と読み、現在の「新内(アロチ)」になった】という説が出てきますが、こちらは「誤り」だと思われます。
例えば、「全国市町村地図便覧(1935年)」を見ると、「新内」という地名はあっても、「新地」という地名は見られません。
また、上図には「北ノ新地」という地名がありますが、こちらは「新内(あろち)」からの派生のようです。以下はコトバンクからの引用です。
北ノ新地
(コトバンクより引用)
[現在地名]和歌山市北ノ新地〈一丁目いつちようめ・裏田うらた町・榎えのき丁・上六軒かみろつけん丁・下六軒しもろつけん丁・田た町・中六軒なかろつけん丁・二丁目にちようめ・東ひがしノ丁・分銅ぶんどう丁〉
岡領おかりよう町の南に続き、もと北之新内きたのあろちと称された。南新地とともに町方支配の高付地で、在中作方諸事覚書(土屋家蔵)によると享保一一年(一七二六)には新内村のうち一二九石余が新内分であった。文政一三年(一八三〇)の御触書写(道成寺文書)によれば、同年北之新内を北ノ新地と改称、このとき小名南六軒みなみろつけん町を北ノ新地上六軒町、北六軒町を北ノ新地下六軒町、分銅師長屋ぶんどうしながやを北ノ新地分銅町に改め、中六軒町はそのまま本名とし、上六軒町の東に続く町を北ノ新地東ノ町とした。
イメージとしては、新内(アロチ)が古い地名で、そこから新地(北ノ新地)に派生したという感じのようですね。
新内(アロチ)の歴史【和歌山の飲み屋街】
ここからは、新内(アロチ)の歴史について解説していきます。
東和歌山駅(現和歌山駅)の開業により周辺地域が発展
「1924年(大正14年)」に「国鉄東和歌山駅(現和歌山駅)」が開業しました。
これに伴い、周辺地域が発展していき、飲食店なども開業していきました。
東和歌山駅(現和歌山駅)開業から8年後の、「1932年(昭和7年)」には私娼地域(青線地域)「阪和新地」が誕生しています。
娼館というのは、人が多くなければ成り立たない商売ですので、それができるくらいに発展していったということですね。
和歌山大空襲(太平洋戦争)により被害をうける
1945年には和歌山大空襲(太平洋戦争)により和歌山市が大きな被害をうけました。
新内(アロチ)については、和歌山市の他の地域に比べれば、比較的被害は少なかったようです。
和歌山大空襲で被害が大きかったのは、上図の赤で囲んだ箇所(和歌山城、市役所周辺、県庁(現汀公園一帯))周辺で、この辺りについては、壊滅的な被害を受けています。
それと比べれば、アロチ周辺の被害は、和歌山市の中では比較的少なかったといえるでしょう。
とはいえ、アロチの洋食店「フジヤ食堂」は和歌山大空襲で焼失しています。
創業者の故木村智吉さんは関西各地のホテルや大阪市の料亭「灘萬食堂」(現なだ万)などで修業。1932年に和歌山市内に当時は珍しかった洋食屋「フジヤ食堂」を構えた。45年の和歌山大空襲で焼失したが数年後に再建。「お客は金の卵である」などの信条を掲げ、本格的な洋食を手ごろな値段で提供した。
(毎日新聞記事「名店の味、33年ぶり復活 和歌山・「フジヤ食堂」 創業者孫、悲願かなえる /和歌山」より引用)
上記の通り、アロチでも空襲の被害を受けた建物はありました。壊滅的な被害を受けた和歌山市中心街からも近かったことから、アロチ周辺でも一定の空襲被害はあったものと推察されます。
戦後の復興に合わせて新内(アロチ)も発展
「1945年(昭和20年)」に太平洋戦争が終戦、「戦後の復興」に合わせて新内(アロチ)も発展しました。
この頃に開業した「一心(和食・うどん)」様のについての記事(ロカル和歌山様掲載)に、以下の記載があります。
活気があった当時を振り返り「新内かいわいはお茶屋さんがあって、芸子さんの町としてにぎわっていた」と話す。町を歩けば、「こんぴらふねふね」と、お座敷遊びの唄や三味線の音色が聞こえ、着物姿の芸子さんや舞妓さんが行き交っていたという。
ロカル和歌山様「アロチの灯支え79年「一心」が閉店へ」より引用
上記の通り、新内(アロチ)には着物姿の芸子さんや舞妓さんが行き交い、にぎわっていたようです。
1958年には売春防止法が完全施行され、阪和新地(私娼窟)は廃業になりますが、その後周辺は高級バー街(飲み屋街)になり、現在飲み屋街になっている新内(アロチ)につながります。
バブル経済時の新内(アロチ)
1980年代後半から1990年代初頭のバブル経済期、新内(アロチ)は、さらなる繁栄を遂げました。
この時期、日本全体が好景気に沸き、株価や地価が急騰し、消費活動が活発化しました。アロチも例外ではなく、多くの飲食店や娯楽施設が立ち並び、連日多くの人々で賑わいました。
特に、企業の接待や宴会が頻繁に行われ、夜の街としての地位を確立しました。
新型コロナウイルスにより打撃を受けた新内(アロチ)
2019年以降の新型コロナウイルスの感染拡大は、和歌山市の繁華街「新内(アロチ)」にも大きな影響を与えました。
感染拡大防止のための緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が度々発令され、アロチに立ち並ぶ飲食店やスナック、バーなどの営業は時短要請を受け、来客数が大幅に減少しました。
特に、夜間営業に依存する店舗では、収益が激減し、休業や閉店を余儀なくされた店舗もあります。
コロナが明け、回復に向かっている現在
2024年現在、新内(アロチ)の各店舗は通常どおり営業を行っています。
コロナ以降は、デジタル化を取り入れた店舗運営も注目されます。キャッシュレス決済を導入する店舗が増え、時代に合った利便性を提供しています。
さらに、SNSや公式ウェブサイトを活用した情報発信も盛んになっており、料理の写真や店内の雰囲気を伝えるInstagramやTwitterの投稿も話題になっています。
新型コロナウイルスはアロチに打撃を与えましたが、こうした各店舗の取り組みにより、アロチは徐々にではありますが、回復に向けて進んでいます。
新内(アロチ)の歴史年表
新内(アロチ)の歴史年表を、以下の通りとりまとめました。
上記年表が、新内(アロチ)の歴史を知る一助になれば幸いです。
まとめ
和歌山市の繁華街「アロチ」は、その歴史の中で幾度もの変遷を遂げてきました。
長年にわたり地元の人々に愛されてきたアロチは、今後も和歌山の繁華街として、グルメやお酒を楽しめる場所として残り続けていくでしょう。
アロチは、和歌山の住民の思い出が詰まった場所であり、多くの観光客にとっても和歌山の魅力を知る入口の1つとなっています。
ぜひともアロチに行ってみて、グルメやお酒を楽しんでみてください。
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