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徳川吉宗の死因は何?晩年・家族構成・大奥について解説

徳川吉宗の死因は何?晩年の状況や家族構成、大奥との関係まで解説 和歌山の歴史

江戸時代中期、停滞する幕政に改革の風を吹き込んだ、和歌山出身の8代将軍・徳川吉宗。享保の改革で知られる彼の政治手腕は広く評価されていますが、その晩年や死因については意外と知られていない部分が多いのではないでしょうか。「吉宗はどのように最期を迎えたのか?」という問いには、歴史好きであっても即答できないかもしれません。

本記事では、徳川吉宗の死因や晩年の健康状態に迫るとともに、将軍職を退いた後の「大御所」としての動向を詳しく解説します。また、病状の推移や当時の医療事情、さらには暗殺説の真偽まで、多角的な視点で彼の最期に迫ります。

さらに、吉宗の家庭環境にも注目。正室・側室、子供たちとの関係性や、大奥でのエピソード、そして後継者選びの背景を紐解くことで、家族という視点からも彼の人物像を浮き彫りにします。将軍という表の顔と、父としての裏の顔。その両面に焦点を当てていきます。

この記事を通じて、改革者・徳川吉宗の「最期」がどのようなものであったのか、そしてその死が幕府に何をもたらしたのかをご確認いただければ幸いです。

記事のポイント
  • 徳川吉宗の死因や最期の様子について、医学的・歴史的根拠をもとに理解できる
  • 「享保の改革」がどのような内容だったかを具体的に把握できる
  • 吉宗の家族構成や子供たちとの関係から、後継者選定の背景を読み解くことができる
  • 大奥改革や家臣との関係から、吉宗の政治手法と人物像を深く知ることができる

徳川吉宗の死因と晩年の健康状態を探る

徳川吉宗の死因と晩年の健康状態を探る
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  • 徳川吉宗の死因とは?病気?暗殺?最期の日に迫る
  • 徳川吉宗がしたことを簡単に解説:享保の改革の3つのポイント
  • 晩年の徳川吉宗は何をしていた?政務と健康の実態
  • 死因にまつわる逸話や記録の信憑性
  • 吉宗の死後、幕府に与えた影響とは?後継政権の変化も解説

徳川吉宗の死因とは?病気?暗殺?最期の日に迫る

徳川吉宗は、1751年(寛延4年)6月20日に江戸城(現・皇居敷地内江戸城跡)で死去しました。享年68歳(満66歳)で、死因は「再発性脳卒中(中風)」とされています。生前の激務や高齢による体調の衰えが原因とされ、延享3年に発症した中風が最期まで尾を引いたと考えられています。

まず、引退後も大御所として政治の実権を握っていた吉宗は、病を患っても政務への意欲を失いませんでした。しかし中風の影響で右半身に麻痺が残り、言語障害にも苦しむようになります。それでも彼はリハビリを行い、江戸城内を歩けるほどに回復を見せました。

一方で、再発後は回復が思わしくなく、医療的な措置が限られていた当時としては最善を尽くしたものの、容態は悪化。特に後年は体調不良が続き、幕府内でも死期が近いと噂されていたようです。死の直前まで執務に関わっていたことからも、彼の政治家としての責任感の強さがうかがえます。

このように、吉宗の最期は暗殺などではなく、記録にも残る自然死とされます。享年68歳という当時としては長命であり、その死は将軍家や幕臣たちに大きな衝撃を与えました。

徳川吉宗がしたことを簡単に解説:享保の改革の3つのポイント

徳川吉宗がしたことを簡単に解説:享保の改革の3つのポイント
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徳川吉宗は「享保の改革」を通じて幕府の財政再建と社会制度の刷新に尽力しました。就任当初の幕府は、財政難や綱紀の緩みが深刻化しており、吉宗は紀州藩主時代の経験を活かし抜本的な改革に踏み切ります。

まず、改革の柱となったのは財政面での「上米の制」や「五公五民」などの制度導入です。これにより幕府の歳入増加と支出削減を図り、質素倹約を庶民にも求めました。また、年貢徴収の厳格化もこの時期に進められています。

次に、社会制度改革では「目安箱」や「小石川養生所」、そして法整備として「公事方御定書」が制定されました。これにより庶民の声を政治に取り入れ、福祉と法の整備を進める姿勢を見せたのです。

このように享保の改革は、経済・法制度・民生の三本柱で構成されており、次のようにまとめることができます。

改革内容概要
財政再建上米の制導入、年貢率の五公五民化、質素倹約政策など
社会制度の整備目安箱、小石川養生所、公事方御定書の制定
文武の奨励と大奥改革武芸の復活、江戸町火消し(いろは四十八組)設置、大奥の人員削減

吉宗は、財政と民政の両立を図るとともに、将軍権力の強化にも努めました。

晩年の徳川吉宗は何をしていた?政務と健康の実態

徳川吉宗は1745年に将軍職を息子・家重へ譲りましたが、その後も「大御所」として幕政に強い影響を持ち続けました。表面的には隠居していましたが、実質的には政務の最終決定権を握っていたといえます。

次に、家重が病弱で言語不明瞭だったこともあり、吉宗の存在は幕府の安定運営にとって不可欠でした。実際、家重の政策判断には吉宗の意向が色濃く反映されていたとする史料も多く、父子二人三脚の政治運営がなされていたのです。

一方で、晩年の吉宗は健康状態が悪化していきます。延享3年には中風を発症し、右半身麻痺の後遺症に苦しみました。それでも、江戸城の本丸まで自力で歩こうとするなど、気力と責任感は失われていませんでした。

このように、晩年の吉宗は健康に悩まされながらも政務を担い続ける姿勢を崩さず、その統治者としての責任感は、後世の歴史家からも高く評価されています。

死因にまつわる逸話や記録の信憑性

死因にまつわる逸話や記録の信憑性
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徳川吉宗の死には暗殺や毒殺などの陰謀論が噂として語られることがあります。しかし、当時の史料や医師の記録をたどる限り、病死であることは確かだといえます。。

まず、死因とされる中風(脳卒中)は再発によって致命的な状態に至ったと記録されています。とくに「延命治療」や「薬草治療」が試みられていた記録が残っており、病死であることを裏付ける要素は多くあります。

また、吉宗の最期に不審な状況があったという報告はなく、死の直前まで執務に関わっていたことからも、計画的な殺害であったとは考えにくいです。さらに、死後の幕府内でも混乱は見られませんでした。

このように、吉宗の死因をめぐる陰謀説は話題性が先行したものであり、医学的・記録的に見ても自然死であるという見解が主流です。

吉宗の死後、幕府に与えた影響とは?後継政権の変化も解説

徳川吉宗の死後、将軍職を継いだのは長男の家重でした。しかし家重は言語障害と病弱体質により、政治的には不安定さを抱えた将軍として知られています。そのため幕政の舵取りは、老中や側用人に大きく依存する体制へと変化していきました。

まず、吉宗が築いた「大御所体制」は、彼の死によって機能しなくなり、権力の分散が進みます。家重自身が独自の政策を打ち出すことは少なく、田沼意次ら側近の発言力が強まったことで、幕府の権力構造にもズレが生じていきました。

次に、吉宗が推進した享保の改革は継承されましたが、時代の変化に対応しきれず、百姓一揆や財政難が再び顕在化していきます。社会的安定の礎を築いた吉宗と比べ、後継政権の手腕には疑問符がつけられることが少なくありません。

このように、吉宗の死後の幕政は、安定から次第に揺らぎへと向かう過渡期でした。彼の死は一つの時代の終わりを告げ、新たな試練の幕開けでもあったのです。

徳川吉宗の死因に迫る鍵は“家族関係”にもあった?人間関係を徹底解説

徳川吉宗の死因に迫る鍵は“家族関係”にもあった?人間関係を徹底解説
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  • 妻や側室は何人いた?正室・側室の実態
  • 徳川吉宗の子供たち:将軍家の後継者とその運命
  • 家系図をわかりやすく解説
  • 吉宗と大奥の関係性:改革と女性たちの影
  • 人物像を支えた家族・家臣たちの存在

妻や側室は何人いた?正室・側室の実態

徳川吉宗には正室が一人いましたが、早くに亡くなったため、その後は複数の側室を迎えています。正室は真宮理子(しんぐうりし)、有栖川宮家の出身で、結婚からわずか4年で病没しています。このため、吉宗の子どもたちはすべて側室から生まれたことになります。

まず、記録に残る側室の中で特に知られているのは、家重の母・深徳院、本徳院(宗武の母)などです。他にも数名いたとされますが、名前や詳細が不明な人物も多く、正確な人数は定かではありません。ただし、大奥改革で女性数を削減した吉宗自身が、側室を複数持っていたことは一種の矛盾でもあります。

一方で、吉宗の側室たちはいずれも身分や出自を重視された人物が多く、政治的な背景や派閥のバランスを考慮した選定だった可能性もあります。側室の中から将軍の母となる人物が出たことは、大奥内における女性の権力構造にも影響を与えました。

このように、吉宗の家庭環境は表面的な質素倹約とは裏腹に、実際には側室を通じて複雑な人間関係を築いていたことがわかります。政治家でありながら一人の父親でもあった彼の側面が、家族構成からも垣間見えるのです。

徳川吉宗の子供たち:将軍家の後継者とその運命

徳川吉宗の子供たち:将軍家の後継者とその運命
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徳川吉宗には少なくとも6人以上の子どもがいたとされますが、公式に確認されているのは長男・家重、次男・宗武、四男・宗尹などです。いずれも将軍家や御三卿(田安家・一橋家など)の礎を築く人物となりました。

まず、長男・家重は9代将軍として吉宗の跡を継ぎましたが、言語不明瞭の障害があり、政務運営には苦労があったとされます。そのため、吉宗の「大御所」としての指導が死の直前まで続いたのです。

一方で、次男の宗武は田安家の祖として文武両道に秀で、将軍職に最もふさわしいとの声もありました。また、四男・宗尹は一橋家の祖として、後に徳川慶喜(15代将軍)の先祖ともなります。いずれの子も、それぞれの分家で重要な役割を担いました。

このように、吉宗の子どもたちは本家・分家を問わず徳川家の発展に大きく寄与しています。特に、障害を抱えた家重を将軍に指名した背景には「長子相続」を守るという吉宗の保守的な信念があり、それが後の幕府運営にも影響を与えることになりました。

子の名前母親備考
家重深徳院9代将軍、言語不明瞭な障害あり
宗武本徳院田安家創設、聡明で人気が高かった
宗尹不明一橋家創設

宗武や宗尹の方が有能と見られていたものの、将軍家の「長子相続」原則を守るため、吉宗は家重を後継に選びました。

家系図をわかりやすく解説

徳川吉宗の家系図を見ると、8代将軍としての地位だけでなく、分家の基盤も築いた重要人物であることがわかります。彼の子孫は将軍家に限らず、田安家・一橋家といった御三卿にも連なっていきました。

まず、正室・真宮理子との間には子は生まれませんでしたが、側室たちとの間に男子が複数誕生しています。その中で将軍となった家重を含む家系は、のちの政権にもつながる重要な系統となります。

次に、家系図に登場する宗武・宗尹はいずれも別家を興し、その血筋は後の一橋慶喜(15代将軍)にも続きます。つまり、吉宗は将軍としての直系だけでなく、分家としての徳川の拡大にも大きな貢献をしたといえるのです。

このように、以下の表にまとめることで吉宗と家族の関係が視覚的にも理解しやすくなります。

名前関係補足
徳川吉宗本人8代将軍
真宮理子(正室)正室宝永3年に婚姻、宝永7年に死別
深徳院(側室)側室家重の母、大奥の出身
本徳院(側室)側室宗武の母、側室の一人
家重長男9代将軍、言語障害があったが後継
宗武次男田安家の祖、聡明と評される
宗尹四男一橋家の祖、兄より優秀との評

吉宗と大奥の関係性:改革と女性たちの影

吉宗と大奥の関係性:改革と女性たちの影
千代田之大奥 元旦二度目之御飯 橋本(楊洲)周延画

徳川吉宗は将軍就任後、大奥の構造改革に着手しました。それまで約4,000人いた大奥の女性たちを1,300人程度にまで削減したという風に言われています。

(4,000や1,300という人数は普通に考えて多すぎるので、事実かどうか疑問はあります。しかし、「美しい女性は、嫁ぎ先が見つかりやすいだろう」という理由から、大奥の美女を50人解雇(リストラ)したというエピソードが残っています)

財政再建の一環として質素倹約を徹底したのです。これは享保の改革の一環として位置づけられています。

大奥における女性たちの人員削減は、幕府内の派閥や利権にも大きな影響を与えました。大奥は単なる居住空間ではなく、将軍の私生活と政治的影響が複雑に絡み合った場でもあったからです。

一方で、吉宗自身は大奥に側室を迎えており、その一人・深徳院は後の将軍家重の母でもあります。つまり、吉宗は改革者としての顔と、私的な感情で動いた男としての面を同時に持っていたといえます。

このように、大奥の改革は成功したものの、その裏側には将軍個人としての面も存在しました。公私のバランスを取りながらも政治的合理性を追求した吉宗の姿勢は、現代にも通じる課題を投げかけているといえるでしょう。

人物像を支えた家族・家臣たちの存在

人物像を支えた家族・家臣たちの存在
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徳川吉宗の統治が成功を収めた背景には、優れた家臣たちと家族の存在がありました。とくに享保の改革を支えた老中や側近たちの働きは見逃せません。吉宗は人材登用にも長けており、実力主義を導入した先駆者でもあります。

まず、代表的な家臣としては「大岡忠相」が挙げられます。町奉行として庶民の信頼を得た彼は、目安箱の導入や町火消の設置など、生活に密着した改革を実行しました。また、老中・松平乗邑なども吉宗の意向を政策に反映させるキーパーソンでした。

一方で、家族内のバランスにも気を配っていた吉宗は、息子たちの役割を明確にし、家督争いを未然に防ぎました。特に障害を抱える家重を支えるために大御所として政務を継続した姿勢は、政治と家庭の融合ともいえるでしょう。

このように、吉宗の政治的成功は彼個人の才覚だけでなく、家臣や家族との連携によって実現したものです。その統治スタイルは、合議と信頼に基づいた持続可能なリーダーシップの模範として評価されています。

徳川吉宗の死因について総括

美術館前の徳川吉宗の像
徳川吉宗の像(筆者撮影)

記事のポイントをまとめます。

  • 徳川吉宗の死因は「再発性脳卒中(中風)」で、1751年に享年68歳で死去した。
  • 晩年は右半身麻痺や言語障害を抱えながらも、政務に関与し続けた。
  • 将軍退任後も「大御所」として実権を保持し、家重の政務を支えた。
  • 暗殺や毒殺説もあるが、記録や医療史料からは自然死とされる。
  • 「享保の改革」により、財政再建・法制度整備・庶民政策を推進。
  • 上米の制や五公五民、質素倹約令などの増収策を実施した。
  • 目安箱や小石川養生所、公事方御定書を通じて社会制度改革を行った。
  • 江戸町火消や武芸奨励も行い、文武両道の政治を目指した。
  • 将軍職は1745年に長男・家重に譲るも、大御所体制で影響力を維持。
  • 家重は障害がありながらも将軍を継承し、吉宗の「長子相続」方針が反映された。
  • 吉宗には正室・真宮理子のほか、複数の側室がいた(深徳院、本徳院など)。
  • 子供たちは家重、宗武、宗尹らで、御三卿を創設し幕府を支えた。
  • 宗尹は一橋家の祖で、15代将軍徳川慶喜へと血統がつながる。
  • 大奥改革では女性数を大幅に削減し、質素倹約を徹底した。
  • 政策を支えた家臣には大岡忠相や松平乗邑などの有能な人物がいた。
  • 吉宗の死後、田沼意次ら側用人の力が強まり、幕政に変化が生じた。

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